チガサキ・ビーチには演習の度に各地の基地から多数の米兵がやって来たため、米兵による暴行や不法行為が後を絶たず、米兵相手の売春も地域の社会問題となっていた。藤沢では敗戦後まもなく、RAAの慰安施設の一環として市当局が特飲業者に協力を申請し、新地に米兵用の慰安施設が開設された。やがて、この市当局が自ら推進する慰安施設は廃止になるが、従業員の多くは赤線地区の特飲店に職場を移すか街娼となるかしたため、実態が変化したわけではなかった。(後略)(p.140)
茅ヶ崎市では、「米軍を相手の売春婦の出現によって白昼住宅地附近の松林等において、目をおおわしめるような露骨な性行為等の実行等があって、子女を持つ母親に「どうしましょう」という驚がくと不安の悲鳴をあげさせ」、さらに「売春婦の中には、演習場附近に貸室を求めるものもあって、そのような群の移動も予想されうる」と、教育関係者やPTA、婦人会がこの問題を深刻に受けとめていた。五四年には、茅ヶ崎市議会で「売春に関する諸行為を取締ることにより善良の風俗を維持」しようとする風紀取締条例が可決されている。しかし、このような対策もむなしく「米兵の周囲には彼ら相手の女性の影がつきまとい、茅ヶ崎、藤沢の社会上・風紀上のゆゆしき問題として存在し続け」た(栗田、前掲「茅ヶ崎とアメリカ軍(3)」*2)。(p.141)
上の「太陽族」を巡る騒動は湘南の〈基地の街〉から〈おしゃれな観光地〉への転換期に対応しているのでは?
しかし、五〇年代後半になると、米軍基地や米兵たちの姿が徐々に日常の直接的な風景からは遠ざかり、「一部の地域」の問題とされていくにしたがい、この湘南においても「アメリカ」は、単一のイメージに純化されて人びとの意識を捉え始める。たとえば、一九五七年五月一一日の朝日新聞は、湘南海岸のビーチが、いまや「東洋のマイアミ」になろうと躍起になっていることを伝えている。それによれば、前述のチガサキ・ビーチの東隣に位置する片瀬海岸は、「海岸の風景を楽しむドライブウェイ、近代的なビーチハウスと広いモータープール」を備えた「バターくさいまでにモダンな海水浴場」に変身しつつある。神奈川県は、ここに「マリンランド」「ビーチハウス」「ヘルスセンター」などを建設し、やがては外資系ホテルも誘致して、湘南海岸をマイアミビーチに匹敵する一帯に変えていこうと考えているという。
五〇年代後半、この種の「アメリカン」な湘南のイメージは、『太陽の季節』(一九五六年)や『狂った果実』(同)などの映画の影響もあって一気に大衆化し、やがて今日的な湘南イメージを支えていく。もちろん、湘南海岸が「バターくさいまでにモダンな海水浴場」に変身していった背景には、基地からこれらの海岸に遊びに来ていた米兵たちの存在があった。たとえば、やがて湘南海岸はサーフィンを楽しむ若者たちのメッカとなるが、この地にサーフィンが根づくきっかけを作ったのは、近隣の基地から遊びに来ていた米兵サーファーたちである。湘南海岸の風景は、沖縄からグアム、ハワイ、マイアミまでの、基地とリゾートが背中合わせになって観光客を集める諸々のアメリカン・ビーチに連続していたのである。こうしたグローバルな米軍基地文化を背景に、石原裕次郎の熱狂的な人気や湘南ボーイのモデルとして演出された加山雄三、やがてはサザンオールスターズに至るまでの湘南サウンズが登場してくるのである。
実際、五〇年代の太陽族ブームや裕次郎人気では、裕次郎の肉体における「外人性」の強調がさまざまな仕方で繰り返されていた。(後略)