November 25, 2009

「まずこれは小麦粉を使った欧風カレーに関しての話。インドカレーはスパイスが命なので、寝かせてスパイスが飛んでしまうと美味しくありません」

日本の家庭でおなじみのルーから作るカレーは、肉やじゃがいもなどの野菜と一緒に煮込む欧風カレー。寝かせると美味しく感じるのは、欧風カレーに限った話のようだ。

「このカレーを調理直後に食べた時は、最初はスパイスが際立ちますが、逆に味の印象は徐々に薄れていきます。それに対して、24時間放置したカレーはスパイスは飛んでいるので口にしたときのインパクトは大きくないですが、噛み続けているうちに具材に染みた旨味がじわじわ感じられ、旨味を感じる時間が長くなるためだと思われます」

たとえばシロアリがコロニーを形成するとき、それはどこかにリーダー的存在がいて大局的な状況を判断したり、あらかじめ設計図を描いたうえで指令を出していたりするわけではないことが──それこそ創発現象の代表的一例として──よく知られている。しかし、それでは具体的にはどのようなメカニズムによって秩序立てられているのか。それを説明するのが、「Stigma(刻印)」と「Ergon(仕事)」からつくられた「スティグマジー」なる概念だ。同書によれば、シロアリたちは相互にコミュニケーションを取っているわけでもなく、それまでになされてきた仕事の産物、すなわちコロニーの建設途中の状態(たとえばシロアリたちが堆積したペリット[食物中の不消化物を吐き出したもの]の厚みや配置)こそが、建設者であるシロアリたちに対する情報源となるという。同書の言葉を使えば「創発した構造自身からもたらされる刺激が、個体にとって貴重な情報源となりうる」ということ。すなわち建築過程のログに依拠した間接的なコミュニケーション。それが「スティグマジー」なのである。
こうした「スティグマジー」に基づく自己組織化現象★7は、正のフィードバックと負のフィードバックの組み合わせによって特徴づけられるという。ここで興味深いのは、それぞれのフィードバック・メカニズムの由来である。たとえばシロアリのコロニー形成であれば、正のフィードバックは「すでに何か作られている所に作れ」という単純な規則によってもたらされる。これはおそらくシロアリの遺伝子にコードされた本能的なルールであろうと著者たちは推測する。これに対して負のフィードバックは、正のフィードバックによって際限なく拡大していく建設行動にブレーキをかけ、自己組織的秩序を安定させる役割を果たす。たとえば、「他の柱のそばに柱をつくるな」といった規則がそれにあたる。しかし、こうした負のフィードバックを引き起こす規則自体は、遺伝的にコードされている必要はないという。なぜなら負のフィードバックは、端的に近辺にいるシロアリ数の減少や、資材の枯渇といった「物理的な限界」によってもたらされるからだ。
繰り返せば、自己組織化のメカニズムにおいては、正と負のフィードバックが拮抗し、前者はなんらかの明示的ルールの結果として、後者は物理的な限界によってもたらされる。『CODE──インターネットの合法・違法・プライバシー』(翔泳社、2001)におけるローレンス・レッシグの言葉を使えば、前者の正のフィードバックは「規範」(ただしここでの規範は遺伝子上にコードされた先天的ルールだが)、後者の負のフィードバックは「アーキテクチャ」によって規制されていると言い換えることができるだろう。そしてこの換言からも明らかなように、筆者の考えは、情報環境においてはこの負のフィードバックをもたらす物理的限界を、アーキテクチャ上の機構として人為的に設計することができるようになった、というものである。
言うまでもないことだが、これまで人類は自然を制御する力を発展させてきたとはいえ、物理法則や自然法則そのものに根本的な修正を加えることはできなかった。しかしヴァーチュアルな情報空間であれば、その制約は取り払われ、ある種の擬似物理的な限界を人為的に設計できる。それゆえ情報環境においては、自己組織化メカニズムであるところの負のフィードバックの操作可能性が高まるのである。
さらに情報環境においては、諸々の履歴情報が保存されることによって(いわゆる「ライフログ」化の進展にしたがって)、「スティグマジー」のリソースを広範に提供することが可能になる。これも今後の大きな可能性のひとつであり、どのような履歴情報にしたがってアルゴリズミックに行動すれば(あるいはどの程度その履歴情報の淘汰を進めれば)、従来のコラボレーション(協働)やコーディネーション(協調)を超えるパフォーマンスを発揮できるかが今後の検証の対象となろう(すでに「スティグマジー」とウェブ上のマス・コラボレーションを引きつけた先行研究も存在する★8)。さらにその先には、「スティグマジックな都市設計」「スティグマジックな民主制」「スティグマジックな市場活動」といった可能性も構想しうると思われる★9。

10+1 web site|テンプラスワン・ウェブサイト|自己組織化は設計可能か──スティグマジーの可能性

正/負のフィードバックの峻別の仕方(およびそこから思想的に引き出すimplication)に凄い違和感があるな

“無意識のアーキテクチャ”は、観察されたパラメタからルールを作り出します。だから、そのルールを悪用するスパムに対してフォロワーにならざるを得ない。PageRankなんて、まさにそう。ルールが顕在した瞬間にユーザーが変化してしまう。これに対応するには正義のガーディアン(守護者)が必要になってしまいます。そして、その正義は誰のモノかという議論が起きる。

 そして、結局は”無意識のアーキテクチャ”も格差を生む。スパムとは言わないまでも、ルールを旨く利用して成長できる人と無意識のまま流してしまう人。しかもルールは変化し続けるから、成長できる人も学び続けなくてはならない。


 一方、”意識のアーキテクチャ”は人の認識や身体は変容できるという前提に立ちます。そして、意識の変容を通じて日常に埋め込まされていきます。だから、変化に強い。一度得られた視点は、たとえ社会が変化しても有効に機能します。学び方を学べば、何を学ぶにしても早いと言うわけです。

 変化し続ける多様性に対応できるのは人であってアーキテクチャではありません。アーキテクチャに出来るのは手助けだけ。そうしないと自律的に持続できる仕組みはならないのです。

 もちろん”意識のアーキテクチャ”も、現実世界に埋め込むのは簡単ではありません。個人の意識変容をしていくのは大変な手間です。もっとも重要なのは教育でしょう。でもね、これって当たり前だと思うんですよ。そんな簡単に問題解決するなんてありえない。時間はかかるかもしれないけど、やっぱりきちんと意識を変容させていくしていくしかない。

さて、濱野さんの提示するアーキテクチャ論は「多様な価値観を持った人々に対して、単一のインフラとして機能するアーキテクチャ(主に情報システム)を通じて、自動実行的に社会を動かすべきではないか」というものです。自動実行といってもプログラミングされた通りに人々が動くようなツマンナイ話ではありません。

 例えばニコニコ動画はインフラとして機能してます。その上で作られるコンテンツについての規定は非常に少ない。著作権侵害については「権利者に削除権を渡して、自由に消させる」という仕組みだけを用意することで解決をしています。こうしたアーキテクチャはユーザーの行動に一種の方向性を与えます(ある種のギリギリを楽しむ動画が出現することも含めて)。

 この”インフラとして機能するアーキテクチャ”というのを突き詰めたのが、(都市伝説だけど)「マクドナルドは椅子の堅さと温度で回転率を調整してる」というような人々の無意識に働きかけるアーキテクチャの存在です。

 マクドナルドの例を初めて、こうしたアーキテクチャ論は無意識の統制や管理社会を連想しがちです。しかし、ポジティブに捉えなおせば「普通の人がやりたくないようなこと、放っておいたらダメダメになってしまうようなことでも社会的に実現できる可能性がある」と言えます。

 例えばベーシックインカム。ベーシックインカムを簡潔に言うと「死なない程度のお金を毎月あげるから、将来の保証とかは一切なしね」という考え方です。ところが、このお金を生きるためではなくて娯楽に使ってしまうダメダメな人が出てくるかもしれない。であれば、電子マネー化して食料品にしか利用できないようにしてしまう。そうすればベーシックインカムが正常に機能する可能性があるのではないか(他にも東さんの民主主義2.0とか、仮想キャラクターによる政治とか、いろいろ例は出ていました)。

 ところが、こうした”無意識のアーキテクチャ”にはアーキテクチャのルールが分かった瞬間から悪意との戦いが始まるという宿命があります。前述のベーシックインカムの電子マネー化であれば、おそらく食料というカテゴリを通じて何か裏をかく人がでてくる。

 江渡さんは「Googleの20%ルールを裏返せば、80%はスパムとの戦いという作業」と指摘したうえで「誰が、それをやりたがるのか」という疑問を投げかけています。ある種の正義感や責任感が機能する可能性はあるものの、明確なロジックを組み立てることはできないでしょう。

 というわけで、「”無意識のアーキテクチャ”というのは存在するし、それは現実社会でも有効に機能する可能性はあるけど、実際やるとなるとスパム対策が大変すぎて本当にやれるの?」というところで話がぐるぐるというのが前半。

日本社会の現実に「社会的排除」概念を適用して分析する3~5章の部分以降に限定して,雑感.

「究極の社会的排除を示す『定点』の喪失」.その典型例としての「路上ホームレス」の調査からは「排除の軌跡」に2つの形がみえてくる.

1つは「社会からの『引きはがし』」.いったんは社会のメインストリームに組み込まれた人の身の上に,多様で複合的な要因が一気に押し寄せることで「定点」から引き剥がされホームレスにいたるというルート.失業・倒産といった要因に同時に生じた離婚や借金,その原因でもあり結果でもあるアルコール依存症や疾病・けが,交通事故や災害など......これらが一気に襲いかかることで社会から引き剥がされるという「転落」の道筋.

もう1つは「社会への『中途半端な接合』」.そもそも「引きはがされる」ほどのメインストリームへの参加それ自体を最初から(つまり若年時代から)十分経験していない人びと.多くの場合途切れ途切れの不安定な就労だけが唯一の社会参加のチャンネルである.家族形成や住居の獲得をともなわない.その住居の獲得も,この不安定な就労チャンネルのみを通しているため,地域関係からも孤立しやすく,就労を失ったときにはもう何ひとつ社会参加の「定点」を手元に有していない人びと.こちらの「中途半端な接合」層は「引きはがし」層に比べて人生の長期にわたる「排除」を経験しているという点で特徴的であるという.

そして,若年層に焦点をあてた「ネットカフェ・ホームレス」の調査では,後者の「中途半端な接合」のプロセスが拡大鏡のように映し出される.今まさにプロセスとしての「中途半端な接合」を生きている若者たち.

親との関係も不安定.就学も(中卒や高校中退)就業も(切れ切れの非正規雇用を転々)不安定.あるいは高校や大学の卒業まではこぎつけ,何とか就業生活も始めたがその後に生じた就労不安定のため家族との関係を悪化させて家出,など.総じて,社会人としてのスタート前あるいは直後から社会への参加がきわめて不十分な人びと.

ここから著者は2つの指摘を行なう.

まず,こうした社会との「中途半端な接合」を生きてきた/生きている若者には,「おそらく十分保護された子ども時代を経験していないことが推測される事例」が少なくないということ(98頁).若年者の「定点」の喪失にあっては,「移行期における『完全な参加』獲得の挫折としての『中途半端な接合』がある」(99頁)という.それが一点.

もう一つ(これが重要),「学校の影」がきわめて薄い,ということの指摘.そもそも中卒や高校中退など,教育年数それ自体が社会全体の平均値よりも短く,学校卒業までこぎつけた者も「学校からの紹介で正規職へ就職している例がきわめて少ない」(101頁).

なぜ、現代日本で、今こそアーレントを読み直すのか、というテーマは明確に意識されている。著者仲正が指摘するように、現代日本で説かれる政治思想は、装いは複雑に見えても、実際には単純な倫理命題に帰するものが多く、その意味でわかりやすく説かれすぎている。「何をなすべきか」に具体的な当為を描き出してしまう。そのわかりやすさそのものに、アーレントの危惧する全体主義につながる傾向がある。もちろん、そうした観点もわかりやすすぎるという矛盾ははらんでいるし、本書もそこは配慮されている。
 仲正が取り上げている、現代日本の政治思想のわかりやすい一例には「格差社会論」がある。現実の人間には、社会的地位、学歴、技能、コミュニケーション能力など多面性があり、格差の形成も多様な形態を取っているにもかかわらず、ひとたび思想として「人間らしい平等な生活」といった枠組みが提示されると、それだけから「格差社会と戦わなければならない」という至上命題が現れる。数年おきに起きる通り魔殺人事件が、さも現代の格差社会の結果のように真顔で論じられたりもする。こうなれば政治思想といっても、もはやその主張の党派に入るか否かだけが問われているにすぎない。党派的な「善」や「説明」が希求されれば、「格差とはどのようなものか、なぜ格差が問題なのか」と多様性を志向する議論自体、排除されるべき対象とされ、対立する集団の利権の争いのような政治性に帰着してしまう。あるいは、政治性が先行して思想が類別されるようになる。
 アーレントの思想が起立するのは、こうした「政治性」こそ政治ではないのだする指摘においてだ。アーレントによれば、政治とは、人が公を存在の部分を負って公の場に現れ、多様な議論を形成することにある。複数の主張が公において息づくことが政治だとするのだ。アーレントの政治観からすれば、党派的な命題だけが宗教的に問われる現代日本の「政治」議論は倒錯的だ。さらに、「格差是正は無条件に正しい」といった「善」の倫理は、一つの世界観を提示することで、不安に駆られた大衆を理想に導く「思想」となるが、その「思想」の担い手はマックス・ウェーバーが「世界観政党」と呼んだものであり、その政党性こそ全体主義に至る階梯にある。
仲正氏が信仰というか共同体を脱していくのは、先ほどの引用にあった「相対者」が大きな契機でもあったようだ。相対者とは合同結婚式で娶合わすことになる相手である。若い仲正氏にとってはその相対者との出会いと関係に大きな違和感を持ったようだった。そのあたりの話は、なるほどとも思うが、逆に、では魅了されるほどの相対者であったら、統一教会の信仰が続いただろう、ともいえるだろう。エマニュエル・ミリンゴ大司教などもそうなのかもしれない。
November 20, 2009
松原報告は、今日のリスク社会的状況の中で、刑事法は危険よりも不安によって規定されるようになり、また被影響者の感じる「体感治安」の悪化に促されて、止まることのない犯罪化、厳罰化のスパイラルに陥っていること、国民の不安感に対処するために、しばしば実体を伴わない象徴的リスクコントロールが行われること、リスクコントロールの失敗の埋め合わせとしての疑似リスクコントロールが行われがちであることなど、重要な問題を鋭く指摘する好報告でした。これに対する名古屋大学の大屋雄裕さんのコメントは、人々にとって重要なのは体感治安であるということを率直に認めた上で、体感治安悪化という状況のもとで生じがちな、外国人等の被差別カテゴリーを「怪物」「異常」として排除して安全・安心を得ようとする「ホラーハウス」的傾向よりも、監視を全面化・徹底化し「彼ら」(被差別カテゴリー)と「私」の間の区別をなくする「ミラーハウス」の方がましであると指摘するものでした。
浅野報告は国際金融取引の標準フォームを作成する「専門家」、介護士や成年後見人のようなサポートの「専門家」、あるいは他人に危害を加えるリスキーな事業活動を行う「専門家」による支配の問題性に光を当てるものだが、リスク社会における意思決定の問題はさらに、そのような「専門家」でさえもが適切な意思決定を果たし得ず、しばしば「専門家」もまた背負いきれない過剰な負担を負わされているという問題をも含んでおり、「専門家」の行為規制は実は「専門家」の負担解除のためにも必要なのではないかとコメントさせていただきました。

鳩山政権はすべてこれだ。形式にばかりこだわり、中身がまったくない。脱官僚、国債を出さない、天下り禁止、みんな手法だ。でもその手法で何を実現したいの? それが皆無なのだ。そしてやがて中身が問題になって収拾がつかなくなると、その形式までグズグズに崩れてしまう。

 ちなみに前号の本誌で、竹内薫氏は鳩山首相が理系だから「科学的な最適戦略」を採用しているのだと主張していて、ぼくは唖然とした。竹内氏はいろんな意味で先輩なのでケチはつけたくない。でもぼくにいわせれば、鳩山政権に最も欠けているものこそ、まさにこの最適戦略の考え方なのだ。

 だって鳩山政権には、何をもって最適とするかという基準が何もないじゃありませんか、竹内先輩。国家戦略局は、OR的な科学的最適戦略を意味する、と竹内氏は書いていたけれど、その戦略局が一向に動かないのは、まさに鳩山政権に最適戦略がないことを見事に象徴しているんじゃないだろうか?

全国学力テストの都道府県別平均点数と相関するものをまとめます。

正の相関

  持ち家率

  可処分所得*

  中学教員の校務用コンピュータ整備率*

  自民党得票率

負の相関

  給食費未納率

  失業率

  公明党得票率

相関なし  

  日教組候補得票率

  民主党得票率